水道管の中を歩く

流れていく

0か100しかないな

昨日は夜に友達から電話がかかって来て話をしていた。

 

友人たちの話を聞いていると、ちゃんと相手のためを思って会話しているんだなと気づかされる。私は知っている情報をすべて話してしまう。たとえばその話を聞いた人間が少し悲しい気持ちになるだけでなにも対処のしようがない話でも、知っているものなら話してしまう。友人たちに聞いて見ると、無駄に不安にさせても良くないから、という理由で持ち得る情報を話さないという選択肢を持っているようだ。

私は本や他人の話から知った事例をなぞって相槌を打ちアドバイスをしているだけで、実際は相手の感情を理解していない。というか他人が悲しいとか嬉しいとかそういうものを感じる、自分と同じものだと思えていないように感じる。本質的に他人は得体のしれないものであって、それは文鳥やハムスターに対する気持ちと同じだ。

だから全部話してしまうのかもしれない。全ての情報から判断するのは他人であって私ではないし、その判断に付随する負の感情を得るのは私ではないから想像することができない。それはある意味で他人に肩入れしない、感情論で話さないと評価されることもあったが、私はそれを欠落だと感じる。

 

昔は自分に対しても得体のしれなさを感じていて、自分の感情もよく分からなかった。最近は自分が怒っているとか悲しいとか分かるようになってきて、煩わしさも感じるが便利だと思う。そのうち他人のことも分かるようになるかもしれない。同じ人間であることを理解できるかもしれない。

 

そんなつらつらを整骨院で電気を当てられながら考えている。今日は昨日注文した面白そうなボディソープが届いたので、お風呂に入るのが楽しみだ。早く家に帰りたい。