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「わたし」と「あなた」のハーモニー/伊藤計劃ハーモニー感想

 

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

 

 

11月15日に映画『ハーモニー』を見に行った。

原作は読んでいたからとても期待して行ったのにも関わらず、トァンと父の会話のあたりで寝てしまいとても悔しい思いをした。ただ、トァンとミァハの百合というかレズというかそういったスキンシップ描写は見たので、映画についてはそこだけを取り上げたい。あとは原作のことでも書こう。覚書だよ。

 

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私はこの作品を読むと、「わたし」と「あなた」という二項対立のことを思う。本当は「わたし」と「私以外のなにか」でなくてはならないんだけど、それだと私の頭では追いつかなくなるからだ。

ハーモニーで描かれる世界は生府を頂点とした、人間の命をリソースとした思いやりの世界だ。「わたし」は私だけのものではなく生府を通じた人類との共有物である。「わたし」には意思があるが、身体は私の意思とは無関係に健康を保つ「WatchMe」に繋がれている。繋がれていなければならない。不健康であること、それを容認すること、他者に不干渉であることは悪である。そういう世界だ。

そんな世界で成長期を終えるまでという「WatchMe」のメインサーバに繋がれない、ある意味の猶予期間にトァンとミァハとキァンは出会った。そして思春期を共に過ごし共感と依存とを混ぜあわせた奇妙な関係の地続きの中「WatchMe」と生府を騙し、自死しようとする。

 

ミァハはとても賢く共に戦う同志を探していた、とトァンは考えている。

ミァハは本を読みながら公園で友達を探していた、とキァンは考えていた。

 

小説の中での描写では、どこか浮世離れしており賢く、哲学や文学を愛し、生府の統治する世界を憎む大人びた少女、とされているミァハ。デッドメディアとなった本を「孤独の持久力が高い」と評したミァハ。それでも私はミァハが孤独を愛していたとは思わない。

 

ミァハは「意識を持たない」という劣性遺伝子を備えた少数民族の生まれだ。そこから攫われレイプされるうちに憎しみを知覚し始め、意識をエミュレートする事ができるようになった。意識をエミュレートできるように”なって”しまった。

ミァハにとってそれはきっと不幸だった。攫われることよりも、レイプされることよりも、意識を理解してしまったことがミァハにとっての最初にして最悪の不幸だったんだろう。

 

意識がミァハにもたらしたのは、「わたし」と「あなた」だ。

保護される「わたし」、カウンセリングを受ける「わたし」、養子として引き取られる「わたし」。

保護する「あなた」、カウンセリングする「あなた」、養子を引き取る「あなた」。

それは「わたし」は私でしかなく生府がどんなにリソースとして還元しようとしても絶対に薄まることのない、「わたし」という孤独を見出したということだ。

 

ミァハが憎んだのは孤独であって、世界ではないのではないか。

 

同じように自死をしようとして失敗したトァンは、自らをミァハのドッペルゲンガーだと評す。

しかし、ミァハに出会い知識と世界を憎む方法を授けられたトァンは孤独に憧れている。物心と同時に意識を持っていて、生府の作った思いやりの世界で繋がっていることが当たり前に育ったトァンは「わたし」をエミュレートすることしかできない。トァンは本当のハーモニーの世界を知らないから、本当の「孤独」という絶望を思い描くことができない。だから憧れのままの孤独を愛そうとする。

そしてキァンは「孤独」も「世界」も憎まなかった。キァンはミァハとトァンを深く深く理解できるだろう。だからこそキァンはミァハへの贖罪として13年ごしの自死を達成する。

 

ミァハは意識が見せる孤独が恐ろしく、それなのに孤独をまるで無いかのように振る舞う世界を憎んでいたんじゃないか。

トァンは身体を繋げられる結束が煩わしく、それなのに憧れの孤独の邪魔をする世界を憎んでいたんじゃないか。

 

ミァハとトァンはまるで別の理由で同じものを憎んでいて、最期にトァンはそれに気づいた。自らが「わたし」という孤独にあること、ミァハがその孤独を憎んでいたことを理解した。

だからこそトァンはミァハが思ったやり方ではない形で孤独に寄り添った。キァンと父親の分の弾丸を渡し、孤独を理解し孤独なままそばにいた。

世界は変わってしまうけれど、孤独の存在する世界をミァハと共に見た。それは初めてキァンとトァンが見た本当に同じ景色。

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ここまでは原作の話。映画の話もしよう。

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映画は基本的にストーリーは原作準拠だけど、ミァハとトァンの関係性に「性」を感じる。

 ミァハがトァンに触れる、キスをする、舐める。その理由と、それをトァンが受け入れる理由。それに性のイメージをどうしても感じてしまう。

私は上でも書いたとおりミァハは孤独を恐れていると思っている。また、トァンは学生時代まだ「わたし」をエミュレートすらできていない。そう考えるならミァハが孤独を埋めるためにスキンシップを取ることも、トァンが「わたし」を知らないからこそ近すぎる距離感を受け入れるのもありえることなのかもしれない。

でもそのスキンシップが「性愛」を感じさせるような演出になってしまっていることが残念だ。ふたりはすれ違っていなければならない。相手を思いやってはならない。そこには愛も性もない。「わたし」と「あなた」がいただけだ。本当の最期だけ2人はお互いを理解した。

 

「わたし」と「あなた」は概念に近い。ミァハとトァンという「わたし」と「あなた」、「あなた」と「わたし」は恋もしないし愛もなく、自己欲求をかなえるだけのものだ。互いを見て己が変わっても、相手を変えようとは思わない思えない。目の前の相手を見ずに無意識だとしても世界を変えるための駒にした。

トァンにとっての「私のカリスマ」はミァハにとって必要のないものだ。それは孤独をまとわせる消し去りたいものだ。

ミァハにとっての「ただの人間ではないトァン」はトァンにとってはありふれたリソースのひとつだ。それは孤独を知らない公共物だ。

 

2人は自分自身の欲求のために行動した。それはハーモニクスの世界にはないもの。社会的合理性を欠いたワガママ。

 

そんな2人に性愛なんて型を当てはめてほしくなかった。すれ違い続ける2人の最期の会話が「愛してる」なんて笑わせてくれる。最期、2人の間にあったのは愛なんてチャチなものではない、人間の真理みたいなもの。言葉にならないもの。だからこそ映像でそれを見せて欲しかった。

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これで感想はおしまい。

 

 

ハーモニーという作品は友人に勧められた本だ。映画化が発表される少し前に読んだ。映画より先に読めてよかったと思う。愛にあふれた愛のないユートピアというディストピアを、伊藤計劃の文で読むことができてよかった。眠ってしまった映画の途中に一体何が起こっていたのかいつかは確認したいけど、その前にもう一度小説を読むことにする。