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水道管の中を歩く

流れていく

怖い話

友達に怖い話をオススメされた。


かんかんだら(長編)

 

これが今のオススメってことで読んだ。ものすごく身構えて読んだからそこまで恐怖を感じずに読みきれたんだけど、自分にとって「怖い」ってなんだろうなぁってぼんやり考えたのです。

 

かんかんだらでは、登場人物のひとりが巫女の怨念を鎮めるために森に置かれた箱の中身を動かしてしまう。それは禁忌であり、そのために怨念は実体を持って姿を現した。

この、均衡を崩してしまうっていう行為はオカルトの中では鉄板といっていい行為だと思うんだけど、私が思う恐怖にものすごく似ている。

恐怖といってもオカルトとか霊とかの類ではなくて、生きていく中で怖いと思うようなものだ。すでに出来ているグループに入っていくとき、ものすごく「嫌だ」と感じる。小学校、中学校、高校でグループの出来ていないまっさらなクラス、いち早く自分が構成要素の一員にならなければと気を張ってしまっていたのも、結局は秩序を壊す存在に自分がなるのが嫌だからだった。

オカルト話で神聖な場所や、異世界に入り込んだとき「嫌な」空気を感じ取る登場人物は多い。それは多分、登場人物がその場にとって異物であるからだ。繊細な均衡を破ってしまう可能性が自分にあるということを、異物なりに自己認識して「嫌だ」と感じとる。その場にとって歓迎されない者であると同時に、自分もなにが楽しくてこんなところにいるのかと拒否している。

私にとっての恐怖は、誰かの迷惑な存在に自分がなってしまうこと。場を乱す存在になってしまうこと。

かといって私は自分の心やグループの均衡を崩されることを悪とはしたくない。新しく入ってくる要素を歓迎したいし、私の既成概念を壊してくれる存在を待ち望んでいる。

そうでなければ多分、私は怨霊と変わりなくなってしまう。

いつまでも同じ感情や考えに支配され、変化を拒むのは生きている人間には不健康すぎる。もちろん全て変わってしまうことが良いとは思わないし、禁忌は禁忌として意味があるのも分かっている。でも多分私はこの恐怖を克服しなければならないのだ。

誰かにとって迷惑だとしても、場を乱したとしても全部壊して更地にするくらいの気概も必要かもしれない。そうすれば誰かの怨念が成仏するかもしれない。

 

でも森の中で箱を見つけても触らないでおこうと強く思ったよ。